クラーレを自分に注射した人体実験


クラーレは神経と筋肉との接合部に働くだけで、脳への作用はほとんどないことが最近では判明しています。「ほとんどない」であって「まったくない」とはいえません。クラーレは脳に入れば作用はあるのですが、とても入りにくくて通常は作用はありません。しかし、人によっては少し入ることがあると判明しています。

クラーレを使い始めた頃、ベルナールの実験はもちろん知られていたものの、クラーレが脳にも働くのか働かないのかが議論になりました。ベルナールの実験は、「クラーレは脳には作用しない」ことを証明してはいませんから、当時の水準では、脳波は簡単には取れず、採れたとしても解釈が困難だったでしょう。これに対して、一部の麻酔科医が自ら挑戦しました。友人に人工呼吸を頼んで、自分にクラーレを注射して意識が亡くなるかどうかを確認しました。結果はもちろん「否」で、クラーレは筋肉を動かなくはするものの、麻酔の作用はないことを確認しました。

医学の歴史を見ると、薬を自分に打ってみたとか、機械を自分の体に使ってみたとか、最近を自分に感染させてみたなど、自らを実験台にしている例がみられます。このクラーレの話は論文になって一流の医学雑誌に発表されているので、現在でも読んで当時の様子を生々しく感じ取ることのできる貴重なエピソードです。

クラーレは動物実験には長い間使われてきましたが、実際に医療にはなかなか使われませんでした。これはまあ当然といえます。何しろ筋肉が動かなくなるので、呼吸が止まる可能性が高いからです。人工呼吸がうまくできるようになったのは20世紀の半ばごろのことです。

クラーレを医療に初めて持ち込んだのは、麻酔の領域ではありません。意外なことに精神科の分野でした。現在も行われますが、精神病の治療の一つに頭に電気を流す方法があります。電気ショックと呼ぶ治療法です。この電気ショックの際には全身の強いけいれんが起こり、ときに骨折が発生したようです。そこでこのけいれんを和らげ、骨折を防ぐためにクラーレが使われえるようになったのが1936年ごろで、この成功を見て麻酔科医が麻酔に使用しました。

日本に麻酔が本格的に入ってきたのは、アメリカとの戦争に負けた1945年以降のことです。日本の麻酔科医は、すべて初めからこの筋弛緩薬を知っています。