死せる友人たち

 五年にわたる東京HIV訴訟で、公問での最後の証人尋問が九四年二月七日、行なわれた。証言台に立つだのは原告患者二人である。

 

 その一人、高原洋大氏(四〇代、仮名)は、一九八三年春、妻と出かけた初めての欧州旅行で感染したと推測している。それまで使っていなかった輸入非加熱濃縮製剤を、医者から大量に渡され出血予防のために、旅行中の毎日、二度ずつ打つたからだ。

 

 旅行から戻ってなどなく、高原さんは夫人の見つけた新聞記事に驚愕した。それは致死性の高い伝染病が、アメリカ製の非加熱濃縮製剤を経て感染する可能性があるとの内容だった。

 

 高原さんは東京ヘモフィリア血友病)友の会、通称東友会の役員もしており、さっそく情報収集に入った。血友病の専門医たちに輸入非加熱濃縮製剤は危険ではないのかと問いかけると、一様に「心配はいらない」、「血液製剤を打つ危険よりも打かないで出血する危険のほうが大きい」、「安心して使用しなさい」などの返事が戻ってきた。

 

 高原さんの警戒心も専門家たちの「安全宣言」でゆるみ、彼は旅行から戻ってのちも、非加熱濃縮製剤をときおり、使用し続けたのだ。

 

 厚生省はアメリカに二年四ヵ月遅れの一九八五年七月に、ウイルスを不活性化させた加熱濃縮製剤をようやく承認した。加熱濃縮製剤の承認がこれほど遅れたのは、当時厚生省のエイズ研究班の班長をしていた帝京大学副学長の安部英氏の責任が大きいといわれている。加熱濃縮製剤で治療した血友病患者はHIVへの感染を免れており、同製剤の承認の遅れが日本での二〇〇〇人に上る大量感染の悲劇の要因である。高原さんは証言した。

 

 「帝京大学副学長室で安部先生は、自分が中心になって加熱濃縮製剤を導入したのだと誇らしげにいいました。私はトラベノール社はもっと早く加熱濃縮製剤を出せるといってましたと先生に反論しました。すると先生は『一社の製剤だけ先に認めると患者の問で奪い合いになって、手術のときなどに足りなくなったら皆さんがお困りでしよ。そんなことになったら君は切腹できるのですか』といいました。

 

 それで私は、じゃ先生は、エイズ患者が死んだら、その患者のために切腹できますかといいました。すると先生は『だから君だちとは会うのが嫌なんだ』と、いかにもウッザリといった様子でソッポを向きました」

 

 加熱濃縮製剤は本来可能なタイミングよりも遅れて承認された。そのうえ信じ難いことに、厚生省はそれ以前に出回っていた非加熱濃縮製剤を回収しなかった。回収されない非加熱濃縮製剤は医師によって患者に投与され、さらに多くの人がHIVに感染するという悲劇が起こり続けた。

 

 ちょうどそのころ、フランスから毒入りワインが輸入されていたことが判明し、厚生省は直ちにそのワインの回収と廃棄を命じた。高原さんはワインを回収して、なぜ血液製剤を回収しないのかと、怒りを込めて厚生省に掛け合った。生物製剤課の松村課長は答えたという「ワインは食品なので一般国民に重大な影響を与えるが、血液製剤は市場が限られている」

 

 「では血友病患者は国民ではないのか」と高原さんは反論したが、氏の怒りは当然だ。

 

 高原さんらは業を煮やして別の課を訪ねた。感染症対策室で応接したのは森屋課長補佐だった。非加熱濃縮製剤の回収をしようとしない厚生省の姿勢に高原さんが抗議すると、高原さんらを取り囲んだ同課の若い官僚の一人がいみじくもいっかI「そんなことこちらにいわれても困るんだよな。これは薬害なんだから。生物製剤課のしかことなんかから」

 

 なんと厚生省の役人もこれを薬害だと本音では認めているのだ。事実、医師、専門家、厚生省、製薬メーカー、彼ら全員によってこの薬害はもたらされた。そして高原さんら多くがHIVに感染した。この10年間に高原さんの友人、知人、計三一人がHIVで亡くなっている。周囲に三一人もの死者を数えることのすさましさをだれが本当に理解できるだろうか。日本全国でいえばHIVに感染した血友病患者は、九口に一人ずつ亡くなっている。厚生省と製薬メーカーはこの事実を肝に銘じて、彼らに詫び、責任をとるべきだ。