薬害エイズ被告人の大権威

 九七年三月一〇日、記者会見を終えて部屋を出ようとした安部英氏は、記者席にすわっていた私の前に立ち止まり、小腰をかがめて私の目を見つめながら、細い声で話しかけてきた。

 

 かすれるような声で氏が発したのは「こんにちは」という挨拶だった、ような気がする。「ような気がする」といわざるを得ないほど、氏の声は細く、ほとんど吐く息の流れに消え入るがごとく音声が乗っていたという印象だった。

 

 細い目の表情はよくは読みとれなかったが、およそ五〇分間の記者会見を終えたばかりの緊張のせいか、頬は紅潮していた。私は氏の細い目の奥を見つめ返しながら、応えた。

 

 「こんにちは、先生」

 

 そう、ゆっくりと挨拶を返しつつ、つい、もうひと言が喉まで出かかった。

 

 「もう二度、お話をうかがわせていただけませんか」と。

 

 しかし、私かそういう前に、氏は、かがめた小腰をゆっくりとのばし、背中を丸くしたうつむきの姿勢のまま、私の前から去っていった。

 

 氏はどんな気持ちだったのだろうか。なぜ挨拶をしたのだろうか。仮にも氏は私を名誉毀損で訴えているのである。氏の血友病専門医としての、または最高権威と自他共に称した名誉を傷つけられた、として訴えているのだ。氏が帝京大学訓学長という高い社会的地位を辞職しなければならなかったのも、私の一連の薬害エイズ報道が原因である、と氏は述べている。

 

 私に対する訴えは民事訴訟だが、その一方で今、氏は刑事事件の被告人の立場である。業務上過失致死容疑で逮捕され、起訴され、九七年三月一〇日に初公判を迎えた。冒頭の氏の挨拶は、東京地裁一〇四号法廷で行なわれた初公判が終かった後、司法クラブで会見し、会見が終わって部屋を出ようとしたときのものだ。

 

 一連の裁判への準備や心理的負担で氏の気持ちが弱くなったのか。憎いはずの私の顔をみても、怒りを強めるよりも弱気に流れてしまったということか。あるいは刑事事件の法廷初日で約三時間にわたって本人および弁護人の弘中惇一郎弁護士が、安部氏の無罪を主張する意見陳述を行なったことが、氏に多少の心のゆとりを与えたのか。

 

 記者会見でも、氏は医師として恥じることはしなかった、ペストをつくした、と強調し、「皆さん(報道記者たち)のお力で私を無罪にしてください。そして私を私の愛するあの患者さんたちの元へ帰してください」と涙をうかべて訴えた。自分の気持ちを十分に訴えた、かなりのところまで心中の想いを表現することができたと感じたがゆえのゆとりが、冒頭のような私への挨拶とつながっていったのだろうか。

 

 八〇歳という高齢の、氏の一連の言葉と弱々しい声を聴さながら、私はさまざまに想いをめぐらせた。

 

 刑事裁判初日の氏の訴えをじっくり吟味してみる。氏および弁護人の弘中氏の視点に、決定的に欠けているのが、安部氏の当時の立場と氏が持っていた強い力への認識である。

 

 氏は、「日本では非加熱濃縮製剤を血友病患者に投与するのは、医療の当然の常識だった。それこそが当時の医療水準だった。だから、それに従っただけのことである。罪に当たるようなことはない」という主張を展開した。

 

 当時非加熱濃縮製剤の代わりとして考えられた薬剤は、クリオ製剤と、加熱濃縮製剤だった。クリオヘの変換については、検察側か冒頭陳述で詳しく述べたが、厚生省からも、身内の帝京人学の弟子たちからも氏に加熱濃縮製剤ができるまでの間、一時的措置としてクリオを使うべきだ、との進言があったとされた。

 

 しかし、氏がこれを退け、さらには加熱濃縮製剤の臨床試験をも氏が遅らせたと検察側は主張した。

 

 「余人には計り知れないくらい強かった」といわれる安部氏の力をもって初めて、厚生省や他の専門医の進言を退けることができたのだ。つまり氏白身が当時の日本の医療水準をつくっていたのだ。だから「それに従ったのかなぞ罪に問われるのか」との問いは、自作自演のからくりを覆い隠す言葉でしかない。