少年Mの悲痛な叫び

 薬害エイズに関して、国と製薬企業が被害者に謝ってから、一九九七年三月末で一年になる。この問に五〇人余りの被害患者が亡くなった。厚生省が把握しきれていない人も含めれば、死者の数はもう少し増えるだろう。

 

 私がよく知っている人々も何人か含まれている。九六年一〇月七日午後、「もう限界だ」という悲痛な言葉を残して逝った一七歳の少年Mもその一人だ。優しい面影のM少年は亡くなる一年ほど前に私に聞いた。

 

 「柳井さん、僕のようなこの病気の人、どのくらいいるの」

 

 全国におよそ五〇〇〇人の血友病患者がいて、うち四割が非加熱濃縮製剤でHIVに感染しているから、二〇〇〇人くらいはいると思うと私は答えた。

 

 彼はしばらく沈黙して、「どうしてこんな病気になったんだろう。口惜しい……。悲しい」と、重い声でいった。

 

 少年は生後まもなく非加熱濃縮製剤を打たれるようになり、小学生のときにエイズパニックの嵐をみることになる。

 

 八五年に厚生省が日本のエイズ患者第一号は同性愛の男性だと記者発表し、「エイズは特殊な人々の病気」だという思い込みの基礎をつくった。今では、この記者発表が厚生省の薬害エイズ隠しだったことは明らかだが、当時、私も含めてマスコミは見事に厚生省の情報操作にだまされた。この記者発表の後、神戸の女性がエイズで死亡し、この女性が売春をしていたなどの情報が流され、エイズパニックの嵐が吹き始めた。

 

 少年は小学生のときにこのパニックの影響を受けた。心ない級友たちに疑われたり、また血友病たというだけでいじめられたりした。「僕はいじめを受け、とてもつらい思いをした。小学生のときにひどいことをされましたが、耐え抜きました」と書き残している。

 

 彼は、私と会うごとに少しずつ心を開いてくれた。ある日こういった。

 

 「僕はいじめられて、とても悲しかった。だからいじめた子たちにいったんです。どうして僕の辛い気持ちがわからないのかって。いしめられて悲しい僕の気持ちがなぜわからないのかって」少年は母親にたしなめられるまで、当時のつらかった体験を語り続けた。

 

 また、別の日にはこうもいった。

 

 「本当は僕はテレビに出て、薬害エイズのことを訴えたいんです。お父さんは僕に『最後まであきらめてはいけない。ごく小さな光であっても、追い続ける。それが人問としての生きる力に結びつく』つていってくれた。僕はこの言葉を信じて頑張っていくつもりです。だから、僕を応援してください」

 

 「でも、名前を明かしたりすることはやはりできないんです。エイズの子がいるといって、家族がひどい目にあうかもしれないからです」

 

 世の中に真正面から訴えたいという少年の正義感、それを押し返す家族への想い。両者の狭間で揺れる少年の言葉に涙しかことを思い出す。

 

 薬害エイズ訴訟を担当した東京地裁の魚住庸夫裁判長に少年は書き送っていた。「僕は原告本人です。どんなことにも負けないで生きていきたい」と。「生きて」の三文字を彼は大字で書いている。この太い線のなかに、生き抜きたいという彼の懸命の思いがこもっている。

 

 彼は中学生のころ、運動会で一〇〇メートル走に出て走り抜いた。病気のせいであまり運動をしたことのなかった彼にとっては、とても大きな達成感を残しか出来事だった。こうして中学を卒業し、高校に入学した。

 

 入院回数が増えるようになったのは、このころである。入院生活は、多感な少年にとっては耐え難い体験だ。彼は再び書いている。「土曜日にお父さんが来る。そのときに帰りたい。帰りたい。お願いします」

 

 「お願いします」と書いたあと、彼は「やっぱりムリかな」と記しか。いったんそう記して、その上から棒線を引いている。そして書き足した。「でもあきらめない」、「帰らしてはしい」、「僕は頑張る」と。「やっぱりムリかな」の上に引いた一本の棒線に、彼の心の揺れと迷いとを表わしている。

 

 こうして戦い、迷い、さらに戦って彼は九六年秋、短い一七年の生涯を終えた。あまりにも短い一生である。「もう限界だ」という最後の言葉を残した彼がどれはどの、力一杯の戦いを重ねてきたことか。一七年という短い一生はあきらめることを拒否することの連続だった。それでもHIVは彼の命を奪い去った。

 

 八〇年代初期に血液製剤HIVに感染した患者が、一〇年の潜伏期間を経て、九七年から九九年にかけて大量発病の時期を迎える。少年と同じように、最後まであきらめない人々が1000人単位で発病していく危険な時期に日本は入っている。和解から一年がすぎようとしているが、この大量発病を受け止める医療体制はまだ整っていない。

 

 少年がエイズとの戦いで短い一生を終えるのと前後してエイズに対する新しい治療法が試され始めた。多剤併用といわれるもので何種類かの薬を同時に投与する方法だ。これによってエイズ患者の死亡率は日に見えて下がってきた。九五年をピークに九六年、九七年とエイズによる死亡率は顕著な低下を示している。ただ、このような進んだ医療をタイムリーに受けられる患者はまだ限られている。一日も早く全国に新しい治療法を徹底させてほしいものだ。