安部氏の絶大な権力を示した弟子の喚問

 九七年六月四日、薬害エイズの責任を問かれている元帝京大副学長・安部英氏の刑事裁判は、証人第一号を迎えた。

 

 初めての証人は、長年、帝京大学附属病院で安部氏の愛弟子だった木下忠俊教授である。当日の法廷の印象をひと言でいえば、あるいはこのような表現は妥当でないかもしれないが、安部氏の強力なマインドコントロールに長年の弟子が必死に抵抗しながら証言した、というものだ。

 

 安部氏が血友病の専門医らを前に語ったテープは、これまでも何度か報道されてきた。八三年、血友病患者をエイズから守るために、安全な国内血で製造したクリオ製剤で治療すべきだという意見に対する安部氏の態度が、このテープで明らかになっている。

 

 安部氏はクリオ使用に強力に反対したが、その根拠として「嘘」の理由を専門医らの前で語っていた。クリオは(注射器が)詰まるから使用しないという「嘘」である。「学者としての良心からみれば、あるいは嘘かもしれないが、一度でも詰まることがあれば、それは詰まるんだよ」と語っている安部氏の肉声はテープに残されており、それをテレビのニュース報道などで聞かれた方もいるだろう。この点について木下教授は検察官の質問に明快に答えた。

クリオが注射器に詰まったことはありますか。

 

 「ありません」

一度もありませんか。

 

 「ありません」

 

クリオが注射器に詰まったということを聞いたことがありますか。

 

 「ありません」

 

--他の医師が詰まらせて輸注を中止したのを見たことや聞いたことはありますか。

 

 「ありません」

 

-万が一、もし詰まったらどういうことになりますか。

 

 「単に針を変えれば輸注は続けられます」

 

 この応答を、安部氏は身を乗り出して聞いていた。法廷での証言席と被告人の安部氏の着席している場所は、わずかニメートル離れているかいないかである。安部氏が身を乗り出せば、木下教授の耳元で、その息づかいが聞こえてきそうな近さだ。しかも、氏は木下教授の真横に座っている。どれほど木下教授が真正面を向いて裁判長を見つめていても、教授の視野には安部氏の姿が入っている。長年の師から注がれる視線を木下証人は痛いほど感じていたに違いない。

 

 エイズの原因ウイルスは、細胞傷害性と呼ばれる性質を有している。ごく簡単にいえば、その性質によってT4という免疫機能を司どる細胞が次々と破壊されていくのだ。木下教授は、エイズの原因ウイルスがこの性質を有すると知ったときに、感染した患者の発症率は当然高くなり、免疫不全に陥っていく率も高くなると判断したと述べた。具体的には「発症率は高いだろうと考えました」と証言した。と、そのとき、安部氏が吐き捨てるような口調で「だろう……」とひと言、いったのだ。

 

 あえて解釈すれば「だろう、だって?」という口調だ。検察官はこれを無視して次の質間にうつり、木下教授も次のように答えた。

 

 「このウイルスは感染した細胞を主要化して……」

 

 ここでまた安部氏が囗を挟む。「やっつける」

 

 その心は、たぶん「そんないい方でなく、感染した細胞をウイルスがやっつけるといったほうがわかりやすいだろう」ということかもしれない。安部氏に直接確かめることができないので、その点け不明ではある。だが、意味は不明でも、氏の発言の効果は絶大だった。

 

 次の検察官の質問に、被告人の安部氏が囗を真一文字に結び身を乗り出してよく聞きとろうという体勢をとったのに対し、証人の木下教授のほうは放心状態に陥ったのだ。

 

 検察官が再び質間を発すると木下教授は「あっ……」とようやく反応した。絶大な力で弟子たちをコントロールしていた安部氏の姿がはからずも、法廷で再現された場面だった。

 

 法廷での長い時間がすぎ、それでも木下教授は渾身の力をより絞るようにして証言した

 

「最も責任のあるのは安部先生です」。安部氏に逆らうことのむずかしさを目の当たりにみせつけられたあとでは、木下教授のこの証言はかつてないほど自然に納得できる言葉だった。