良い論文を大量生産する方法

論文を書き上げるまでの一連の過程において、実際に書く、執筆する作業が最も重要であることは言うまでもありません。しかし、徒手空拳では論文は欠けません。したがって書くための準備が必要になるのです。
論文を量産している人がいます。もちろん、中には、リピートのようなものを書いて、お茶を濁す人もいますが、量産できるのは、それがかなうだけの、前もっての蓄積がある、と考えるべきでしょう。
最初の論文を書き上げるのに、準備段階から含めて、6か月かかったとします。とすると、同じ分量で主題が共通する続編の論文は、最初のほぼ半分の3ヵ月で仕上がる、と考えていいでしょう。ライティングのスピードが同じだとしても、準備段階に要する労力が減るからです。
たとえば、文献です。最初の論文のために50冊集めたとすると、第二論文のための準備は、その50冊から始まることになります。すでに必要なものとそうでないものとは取捨選択されているから、新たに追加しなければならない文献を除けば、再度読まなければならない文献の数はかなり少なくて済みます。
そうはいっても、論文を書くにあたっては、たとえ続編であっても、最初の論文と同様に全く新しいスタートラインから出発する、という態度が必要です。論文を書く以上は、必ず、新しい論点、視角、叙述を盛り込む、という心意気で取り掛かるべきです。ましてや、全く新しいテーマとなれば、どんなに論文を書き慣れた人であっても、緊張して当然です。一回、一回、全力を尽くして書くことが何よりも大切なのです。
ここでぜひ心にとどめておきたい点を指摘しておきましょう。
どんなに短い文章を書く場合も、長い論文を書く場合も、その時可能な、最大限の準備をすることが重要だ、ということです。
学生やビジネスマンが書いたものを読むと、準備に時間も労力もかけていないことが一見してわかるものが多いです。確かに、準備に力を尽くしたからと行って、いい論文が書ける、という保証にはなりません。しかし、毎回、毎回、書くたびに準備をすると、それが直接論文で活用されなくても、有形無形に、書き手の中に蓄積されていきます。蓄積されたものは、血肉となり、いつか必ず優れた論文として残ります。
間違った治験や考え方でも、それが新しい光に照らし出されると、時には反面教師として、時には再生された概念となって、現実を理解する鍵になることもあります。だから、一番良くないのは、努力や蓄積を怠って、その場限りの引用やコピーで済ませ、イージーゴーイングで論文を書こうとすることです。あるいは、自説が現実によって否定された時、自説の誤りを訂正する努力を怠り、逆に、現実が間違っている、と呪い続けてなんら生産的な活動をしないことです。