安部氏の絶大な権力を示した弟子の喚問

 九七年六月四日、薬害エイズの責任を問かれている元帝京大副学長・安部英氏の刑事裁判は、証人第一号を迎えた。

 

 初めての証人は、長年、帝京大学附属病院で安部氏の愛弟子だった木下忠俊教授である。当日の法廷の印象をひと言でいえば、あるいはこのような表現は妥当でないかもしれないが、安部氏の強力なマインドコントロールに長年の弟子が必死に抵抗しながら証言した、というものだ。

 

 安部氏が血友病の専門医らを前に語ったテープは、これまでも何度か報道されてきた。八三年、血友病患者をエイズから守るために、安全な国内血で製造したクリオ製剤で治療すべきだという意見に対する安部氏の態度が、このテープで明らかになっている。

 

 安部氏はクリオ使用に強力に反対したが、その根拠として「嘘」の理由を専門医らの前で語っていた。クリオは(注射器が)詰まるから使用しないという「嘘」である。「学者としての良心からみれば、あるいは嘘かもしれないが、一度でも詰まることがあれば、それは詰まるんだよ」と語っている安部氏の肉声はテープに残されており、それをテレビのニュース報道などで聞かれた方もいるだろう。この点について木下教授は検察官の質問に明快に答えた。

クリオが注射器に詰まったことはありますか。

 

 「ありません」

一度もありませんか。

 

 「ありません」

 

クリオが注射器に詰まったということを聞いたことがありますか。

 

 「ありません」

 

--他の医師が詰まらせて輸注を中止したのを見たことや聞いたことはありますか。

 

 「ありません」

 

-万が一、もし詰まったらどういうことになりますか。

 

 「単に針を変えれば輸注は続けられます」

 

 この応答を、安部氏は身を乗り出して聞いていた。法廷での証言席と被告人の安部氏の着席している場所は、わずかニメートル離れているかいないかである。安部氏が身を乗り出せば、木下教授の耳元で、その息づかいが聞こえてきそうな近さだ。しかも、氏は木下教授の真横に座っている。どれほど木下教授が真正面を向いて裁判長を見つめていても、教授の視野には安部氏の姿が入っている。長年の師から注がれる視線を木下証人は痛いほど感じていたに違いない。

 

 エイズの原因ウイルスは、細胞傷害性と呼ばれる性質を有している。ごく簡単にいえば、その性質によってT4という免疫機能を司どる細胞が次々と破壊されていくのだ。木下教授は、エイズの原因ウイルスがこの性質を有すると知ったときに、感染した患者の発症率は当然高くなり、免疫不全に陥っていく率も高くなると判断したと述べた。具体的には「発症率は高いだろうと考えました」と証言した。と、そのとき、安部氏が吐き捨てるような口調で「だろう……」とひと言、いったのだ。

 

 あえて解釈すれば「だろう、だって?」という口調だ。検察官はこれを無視して次の質間にうつり、木下教授も次のように答えた。

 

 「このウイルスは感染した細胞を主要化して……」

 

 ここでまた安部氏が囗を挟む。「やっつける」

 

 その心は、たぶん「そんないい方でなく、感染した細胞をウイルスがやっつけるといったほうがわかりやすいだろう」ということかもしれない。安部氏に直接確かめることができないので、その点け不明ではある。だが、意味は不明でも、氏の発言の効果は絶大だった。

 

 次の検察官の質問に、被告人の安部氏が囗を真一文字に結び身を乗り出してよく聞きとろうという体勢をとったのに対し、証人の木下教授のほうは放心状態に陥ったのだ。

 

 検察官が再び質間を発すると木下教授は「あっ……」とようやく反応した。絶大な力で弟子たちをコントロールしていた安部氏の姿がはからずも、法廷で再現された場面だった。

 

 法廷での長い時間がすぎ、それでも木下教授は渾身の力をより絞るようにして証言した

 

「最も責任のあるのは安部先生です」。安部氏に逆らうことのむずかしさを目の当たりにみせつけられたあとでは、木下教授のこの証言はかつてないほど自然に納得できる言葉だった。

厚生省は知っていた

 九七年五月二八日、東京地裁一〇四号室で厚生省薬務局生物製剤課の元課長、松村明仁氏の刑事公判が行なわれた。「HTIVに汚染された非加熱濃縮製剤を、加熱濃縮製剤が導入されてからも回収命令を出さずに販売を放置していた。それによって少なくとも二人の患者をHIVに感染させ死亡させた」として業務上過失致死罪に聞かれている裁判だ。

 

 松村氏も厚生省も、八五年に加熱濃縮製剤を導入する前は、非加熱濃縮製剤の危険性の予見は困難だったと主張している。また、HIVに感染しても必ず発症するのか否かも定かではない、ウイルスに感染することが発症して命をおとすことにつながるとは必ずしも考えられなかった、との主張だ。

 

 だが、今回出廷した検察側の初めての証人は、そのような松村氏側の主張をことごとく鮮やかに否定した。証人は栗村敬氏、大阪大学名誉教授で日本のウイルス感染症研究の第一人者の一人である。栗村教授は八四年、国内の学者としていち早くエイズウイルスの抗体検査を手がけて成功した学者でもある。

 

 氏は八四年一一月までに国内の血友病患者にHIV感染者がいることを突きとめ、この結果を厚生省主催の京大ウイルス研究所で開かれたエイズ分科会で発表した。内容は血友病患者二七人分の血液検体から六人の抗体陽性者がみつかったこと、一方、非血友病患者一一〇人の全員が抗体は陰性であったことを柱としていた。

 

 栗村氏は「これほど早く日本に抗体陽性者(感染者)が出てきたことに驚いた。血友病患者ではない人々、つまり一般人には感染者はいない一方で、血友病患者は二七人中六人が陽性で感染率の高いことにも驚いた」と証言した。

 

 氏はその後、帝京大安部英副学長の血友病患者の血液サンプルもとりよせ抗体検査を行なった。安部氏の患者四八人分の血液はこの年の夏すでにアメリカで抗体検査されて、半分近くがHIVに感染していたとの結果が安部氏の元に届いていた。

 

 栗村氏が安部氏の患者らの検体を調べたところ、氏の検杏法による結果もアメリカでの検査の結果と一致した。安部氏との連絡を通じて結果を確認した梨村氏は「日本に多くの感染者がいる事実を、自分だけで背負うのは責任が重い、感染者の存在を伝えることで早く手を打ってほしい」と考え、直ちに厚生省に電話で報告したという。八四年一月二八日、お役所の御用納めの日の昼過ぎのことだった。

 

 翌八五年一月末日までに氏はさらに対象を広げて多くの血友病患者および非血友病患者の。血液を検査した。

 

 それによると、血友病患者ではない一般人の全員が抗体は陰性、ホモセクシュアルの男性五三人も全員陰性、病気で輸血をたびたび受ける頻回輸血者二九人も全員が陰性だった。一方血友病患者だけがおよそ三〇%の割合でHIVに抗体陽性、つまり感染していた。この結果により、あらためで日本のHIV感染者は血友病患者にかぎれていること、ハイリスクグループの同性愛者にも、高い頻度で輸血を受けている人々にも、HIV感染者はいないことが確認された。日本のエイズ血友病患者が投与されている非加熱濃縮製剤が原因であることをくっきりと浮かびあがらせた統計である。栗村氏はこの結果を厚生省エイズ診断基準小委員会で発表した。

 

 重要なことは、八四年一一月の研究発表後、栗村氏は厚生省から研究費の支給を受け始めたという点だ。つまり、より対象を広げて調査した資金は厚生省から出ており、その研究戊果は厚生省の委員会で発表したということだ。被告となっている松村課長もその席で結果を間いていたのだ。

 

 栗村氏は「日本のHIV感染者は血友病患者のみ。感染源は彼らの使用しているアメリカの血液でつくられた非加熱濃縮製剤であることが特定された。したがって、直ちに非加熱濃縮製剤の使用をやめさせるべきだというのが私のデータの結論だった」と証言した。

 

 厚生省も松村氏も、自らが支えた研究の結果としての警告を無視していたことになる。これでは今、松村氏が間われている不作為の罪ではなく、まさに、作為の罪である。

 

 もう一つ、感染しても発症率は低いと思われたという主張について、栗村氏は「そのような主張の科学的根拠はなにもなかった」と一言の下に否定した。「むしろ発症率は高くなると想定すべきだった」ともいう。

 

 その理由として、アメリカでの多くの例がすでに高い発症、死亡率を示していたこと、HIVと同種類に属するウイルスの例からみて発症率は非常に高かったこと、また潜伏期間が何年にもわたるほど長いということは発症率が低くなるのではなくむしろ高まることを意味すること、などをあげた。

 

 松村氏および厚生省は非加熱濃縮製剤が多数の感染者を出し、高い率で発症者を出すことを十分に警告されていた。その実態が、研究費の支給を受けていたいわば身内によって明らかにされたのだ。           

官・業・医の無責任の連鎖

 一九九七年三月は薬害エイズの刑事裁判が集中した月だった。安部英氏、二百に松村明仁元厚生省生物製剤課長、二四日に松下廉蔵氏らミドリ十字歴代の三社長の初公判が行なわれた。容疑はいずれも業務上過失致死罪である。

 

 東京地検が安部、松村両裁判を、大阪地検ミドリ十字裁判を担当している。

 

 三つの裁判の冒頭陳述から浮かびあかってくるのは、この国の医療が救いようもなく患者の健康や生命に鈍感であり続けてきたという事実だ。

 

 検察の冒頭陳述書から、被告人の罪を生々しく曝いた箇所を拾ってみよう。

 

 まず安部被告人である。氏が医師としての注意義務を怠り、患者をHIVで死に至らしめ

た理由の一つは、製薬会社との金銭的な密着だったと行頭陳述書で断じた。

 

 これまで安部氏は、自らが主宰する財団法人血友病総合治療普及会の設立資金として、四三〇〇力円を製薬企業に寄付させていたことは知られていたが、検察はこのはかにも①国際会議への参加旅費’滞在費として自己のみが管理する銀行口座に寄付させた、②会合諸経費の資金として一社当たり五○万円程度、計三五〇万円を入金させて適宜使用した、③

国際血友病治療学シンポジウムの運営資金、計二五五〇万円を寄付させ、余剰金計二〇〇〇万円を安部氏は、財団法人の設立資金に自己の個人資産と称して供出したなどで計八四〇〇万円、そのはかにも計九〇件、一四八八万円を頻繁に個人的に受領したとの旨、明らかにした。

 

 安部氏に対する資金の流れは。銀行の守秘義務があり、長年の取材でもわかりにくい側面だった。それだけに検察の示したような頻繁かつ多額の資金の流れは、私にとって最も生々しく迫ってくるくだりだった。

 

 松村元課長は、厚生省が日本のエイズが非加熱濃縮製剤の投与による薬害であることを隠し続けていたのに、安部氏が八五年三月二一日の『朝日新聞』に、実は日本のエイズ患者一号は自分の診ていた血友病患者だったと告げたとき、「安部先生は何を考えているんだ」と怒ったそうだ。日本のエイズ薬害エイズであったことが明らかになり、厚生省のエイズ対策の遅れが間われることを恐れたのだ。同課長はこのときになって初めて、安全な加熱濃縮製剤の承認に本格的に取り組み始めた。

 

 また、血友病患者二七人中六人がHIVに感染していたことを突きとめた八四年一一月の栗村教授の論文が厚生省のエイズ分科会に報告されると、患者の心配よりもまず先に「新聞に報道されるかね」といって、これまたわが身の非が公になることを恐れた姿が検察側冒頭陳述書によって描かれている。

 

 ミドリ十字の場合は、利益追求の企業エゴイズムが明らかにされた。

 

 安全な加熱濃縮製剤が承認された後の非加熱濃縮製剤の販売停止および回収については各社、多様な対応をした。最も悪いのがミドリ十字だ。同社は、加熱濃縮製剤が導入された後も非加熱濃縮製剤を売り続け、卸業者にも売らせ続け、加熱濃縮製剤の出荷を少量に制限して非加熱濃縮製剤を優先させ、しかもミドリ十字の非加熱濃縮製剤は安全な国内血を原料にしていると嘘の宣伝をした。嘘の宣伝を営業部が行なっていることを知った松下は、「今訂正すればこれまでの嘘がわかってしまう。このままいくしかない」と述べ、嘘を嘘のまま通してしまう決定をしている。

 

 冒頭陳述を読むかぎり三者三様、許せない嘘と怠慢とエゴイズムの極致を具現化したわけだが、法廷ではこれまた見事に責任のなすり合いを演じた。

 

 松村氏は「なぜ私一人だけが責任を問われるのか」と問い、厚生大臣、薬務局長も含めて全員の責任だと主張した。安部氏は自分は一介の医師であり、他の国のどの医師も同様に非加熱濃縮製剤を使い続けたと主張した。ミドリ十字は、危険な製剤だということを厚生省が教えてくれなかったと述べた。

 

 官・業・医の、この無責任の連鎖を断ち切るのは、やはり徹底した情報公開しかない。彼らの挙手一投足を、必要とあれば国民が知ることができるような仕組みをつくってこそ、薬害エイズにみられるような悪の構造を変えることができるのだ。      

 

少年Mの悲痛な叫び

 薬害エイズに関して、国と製薬企業が被害者に謝ってから、一九九七年三月末で一年になる。この問に五〇人余りの被害患者が亡くなった。厚生省が把握しきれていない人も含めれば、死者の数はもう少し増えるだろう。

 

 私がよく知っている人々も何人か含まれている。九六年一〇月七日午後、「もう限界だ」という悲痛な言葉を残して逝った一七歳の少年Mもその一人だ。優しい面影のM少年は亡くなる一年ほど前に私に聞いた。

 

 「柳井さん、僕のようなこの病気の人、どのくらいいるの」

 

 全国におよそ五〇〇〇人の血友病患者がいて、うち四割が非加熱濃縮製剤でHIVに感染しているから、二〇〇〇人くらいはいると思うと私は答えた。

 

 彼はしばらく沈黙して、「どうしてこんな病気になったんだろう。口惜しい……。悲しい」と、重い声でいった。

 

 少年は生後まもなく非加熱濃縮製剤を打たれるようになり、小学生のときにエイズパニックの嵐をみることになる。

 

 八五年に厚生省が日本のエイズ患者第一号は同性愛の男性だと記者発表し、「エイズは特殊な人々の病気」だという思い込みの基礎をつくった。今では、この記者発表が厚生省の薬害エイズ隠しだったことは明らかだが、当時、私も含めてマスコミは見事に厚生省の情報操作にだまされた。この記者発表の後、神戸の女性がエイズで死亡し、この女性が売春をしていたなどの情報が流され、エイズパニックの嵐が吹き始めた。

 

 少年は小学生のときにこのパニックの影響を受けた。心ない級友たちに疑われたり、また血友病たというだけでいじめられたりした。「僕はいじめを受け、とてもつらい思いをした。小学生のときにひどいことをされましたが、耐え抜きました」と書き残している。

 

 彼は、私と会うごとに少しずつ心を開いてくれた。ある日こういった。

 

 「僕はいじめられて、とても悲しかった。だからいじめた子たちにいったんです。どうして僕の辛い気持ちがわからないのかって。いしめられて悲しい僕の気持ちがなぜわからないのかって」少年は母親にたしなめられるまで、当時のつらかった体験を語り続けた。

 

 また、別の日にはこうもいった。

 

 「本当は僕はテレビに出て、薬害エイズのことを訴えたいんです。お父さんは僕に『最後まであきらめてはいけない。ごく小さな光であっても、追い続ける。それが人問としての生きる力に結びつく』つていってくれた。僕はこの言葉を信じて頑張っていくつもりです。だから、僕を応援してください」

 

 「でも、名前を明かしたりすることはやはりできないんです。エイズの子がいるといって、家族がひどい目にあうかもしれないからです」

 

 世の中に真正面から訴えたいという少年の正義感、それを押し返す家族への想い。両者の狭間で揺れる少年の言葉に涙しかことを思い出す。

 

 薬害エイズ訴訟を担当した東京地裁の魚住庸夫裁判長に少年は書き送っていた。「僕は原告本人です。どんなことにも負けないで生きていきたい」と。「生きて」の三文字を彼は大字で書いている。この太い線のなかに、生き抜きたいという彼の懸命の思いがこもっている。

 

 彼は中学生のころ、運動会で一〇〇メートル走に出て走り抜いた。病気のせいであまり運動をしたことのなかった彼にとっては、とても大きな達成感を残しか出来事だった。こうして中学を卒業し、高校に入学した。

 

 入院回数が増えるようになったのは、このころである。入院生活は、多感な少年にとっては耐え難い体験だ。彼は再び書いている。「土曜日にお父さんが来る。そのときに帰りたい。帰りたい。お願いします」

 

 「お願いします」と書いたあと、彼は「やっぱりムリかな」と記しか。いったんそう記して、その上から棒線を引いている。そして書き足した。「でもあきらめない」、「帰らしてはしい」、「僕は頑張る」と。「やっぱりムリかな」の上に引いた一本の棒線に、彼の心の揺れと迷いとを表わしている。

 

 こうして戦い、迷い、さらに戦って彼は九六年秋、短い一七年の生涯を終えた。あまりにも短い一生である。「もう限界だ」という最後の言葉を残した彼がどれはどの、力一杯の戦いを重ねてきたことか。一七年という短い一生はあきらめることを拒否することの連続だった。それでもHIVは彼の命を奪い去った。

 

 八〇年代初期に血液製剤HIVに感染した患者が、一〇年の潜伏期間を経て、九七年から九九年にかけて大量発病の時期を迎える。少年と同じように、最後まであきらめない人々が1000人単位で発病していく危険な時期に日本は入っている。和解から一年がすぎようとしているが、この大量発病を受け止める医療体制はまだ整っていない。

 

 少年がエイズとの戦いで短い一生を終えるのと前後してエイズに対する新しい治療法が試され始めた。多剤併用といわれるもので何種類かの薬を同時に投与する方法だ。これによってエイズ患者の死亡率は日に見えて下がってきた。九五年をピークに九六年、九七年とエイズによる死亡率は顕著な低下を示している。ただ、このような進んだ医療をタイムリーに受けられる患者はまだ限られている。一日も早く全国に新しい治療法を徹底させてほしいものだ。

薬害エイズ被告人の大権威

 九七年三月一〇日、記者会見を終えて部屋を出ようとした安部英氏は、記者席にすわっていた私の前に立ち止まり、小腰をかがめて私の目を見つめながら、細い声で話しかけてきた。

 

 かすれるような声で氏が発したのは「こんにちは」という挨拶だった、ような気がする。「ような気がする」といわざるを得ないほど、氏の声は細く、ほとんど吐く息の流れに消え入るがごとく音声が乗っていたという印象だった。

 

 細い目の表情はよくは読みとれなかったが、およそ五〇分間の記者会見を終えたばかりの緊張のせいか、頬は紅潮していた。私は氏の細い目の奥を見つめ返しながら、応えた。

 

 「こんにちは、先生」

 

 そう、ゆっくりと挨拶を返しつつ、つい、もうひと言が喉まで出かかった。

 

 「もう二度、お話をうかがわせていただけませんか」と。

 

 しかし、私かそういう前に、氏は、かがめた小腰をゆっくりとのばし、背中を丸くしたうつむきの姿勢のまま、私の前から去っていった。

 

 氏はどんな気持ちだったのだろうか。なぜ挨拶をしたのだろうか。仮にも氏は私を名誉毀損で訴えているのである。氏の血友病専門医としての、または最高権威と自他共に称した名誉を傷つけられた、として訴えているのだ。氏が帝京大学訓学長という高い社会的地位を辞職しなければならなかったのも、私の一連の薬害エイズ報道が原因である、と氏は述べている。

 

 私に対する訴えは民事訴訟だが、その一方で今、氏は刑事事件の被告人の立場である。業務上過失致死容疑で逮捕され、起訴され、九七年三月一〇日に初公判を迎えた。冒頭の氏の挨拶は、東京地裁一〇四号法廷で行なわれた初公判が終かった後、司法クラブで会見し、会見が終わって部屋を出ようとしたときのものだ。

 

 一連の裁判への準備や心理的負担で氏の気持ちが弱くなったのか。憎いはずの私の顔をみても、怒りを強めるよりも弱気に流れてしまったということか。あるいは刑事事件の法廷初日で約三時間にわたって本人および弁護人の弘中惇一郎弁護士が、安部氏の無罪を主張する意見陳述を行なったことが、氏に多少の心のゆとりを与えたのか。

 

 記者会見でも、氏は医師として恥じることはしなかった、ペストをつくした、と強調し、「皆さん(報道記者たち)のお力で私を無罪にしてください。そして私を私の愛するあの患者さんたちの元へ帰してください」と涙をうかべて訴えた。自分の気持ちを十分に訴えた、かなりのところまで心中の想いを表現することができたと感じたがゆえのゆとりが、冒頭のような私への挨拶とつながっていったのだろうか。

 

 八〇歳という高齢の、氏の一連の言葉と弱々しい声を聴さながら、私はさまざまに想いをめぐらせた。

 

 刑事裁判初日の氏の訴えをじっくり吟味してみる。氏および弁護人の弘中氏の視点に、決定的に欠けているのが、安部氏の当時の立場と氏が持っていた強い力への認識である。

 

 氏は、「日本では非加熱濃縮製剤を血友病患者に投与するのは、医療の当然の常識だった。それこそが当時の医療水準だった。だから、それに従っただけのことである。罪に当たるようなことはない」という主張を展開した。

 

 当時非加熱濃縮製剤の代わりとして考えられた薬剤は、クリオ製剤と、加熱濃縮製剤だった。クリオヘの変換については、検察側か冒頭陳述で詳しく述べたが、厚生省からも、身内の帝京人学の弟子たちからも氏に加熱濃縮製剤ができるまでの間、一時的措置としてクリオを使うべきだ、との進言があったとされた。

 

 しかし、氏がこれを退け、さらには加熱濃縮製剤の臨床試験をも氏が遅らせたと検察側は主張した。

 

 「余人には計り知れないくらい強かった」といわれる安部氏の力をもって初めて、厚生省や他の専門医の進言を退けることができたのだ。つまり氏白身が当時の日本の医療水準をつくっていたのだ。だから「それに従ったのかなぞ罪に問われるのか」との問いは、自作自演のからくりを覆い隠す言葉でしかない。                      

厚生官僚の大逆襲

 日本にエイズ研究班が設置された一九八三年、研究班班長安部氏の患者は安部氏の強力な主張にもかかわらず、なぜエイズ患者だと認められなかったのか。厚生省エイズ調査検討員会は、二年後の八五年三月に、なぜアメリカ在住の同性愛者を日本で初めてのエイズ患者と認定したのか。同委員会はなぜ、さらに二ヵ月後の八五年五月に、いったんは否定した安部氏の患者を一転してエイズ患者と認めたのか。

 

 つまり厚生省は安部氏の血友病患者を結局はエイズ患者と認めながら、なぜこの患者よりもあとに出てきた同性愛の男性をエイズ患者第言万と認定したのか。理由は薬害エイズを隠すためだったのではないか。

 

 ぬぐってもぬぐっても消えないこの疑惑が先に国会でとりあげられ、厚生省エイズサーベイランス委員会が改めて、当時の認定は正しかったのか検討し直した。だが、驚くべきことに、当時の判断は「妥当」だったとの結論が再び出された。

 

 しかし、同委員会の山崎修道委員長(国立予防衛生研究所長)も、島田馨委員(専売病院院長)も、山田兼雄委員(聖マリアンナ医科人学教授)も、安部氏の血友病患者のほうが、順天堂人学の同性愛の患者よりも、エイズの発症は先であり、その意味では第一号患者は安部氏の患者であることについて議論の余地はないと述べた。

 

 それなのになぜ、同性愛の男性を言万患者とした八五年の判断が正しかったと結論されたのか。この疑間を追っていくとみえてくるのが、巧妙に仕組まれたトリックである。仕掛けだのは厚生官僚だ。その意味するところは、厚生官僚の大逆襲が始まったという事実である。

 

 サーベイランス委員会の山崎委員長は述べた1「厚生省からわれわれに課されたのは八五年の判定が当時の基準に基づいて正しく行なわれていたか否かを検討することでした。

 

 厳密に当時の医学的基準でみれば、安部先生の患者も順天堂大学の同性愛の患者もエイズだったという判断は正しかったと思います。ただ、世問でいかれているように、症例としては明らかに古い安部先生の患者がなぜもう一方の患者よりも前に、発表されなかったのかについては、疑問が残ります。

 

 しかしご理解いただきたいのは、その疑間を解くこと、つまり犯人探しは私たち科学者のやることではないということです」

 

 一方、今回の調査を担当した厚乍省エイズ結核感染症課の岩尾總一郎課長は、次のように述べた。

 

「国会で質されたのは『順天堂大学の症例(同性愛の患者)の見直しはしないのか』という点でした。ですから当時委員会に提出報告された症例を、安部先生の患者のぶんまで再検討した。委員の先生方は、当時の判断は医学的に問違っていなかったという判断をしたわけです」

 

 岩尾課長も各委員も『医学的判断』の正否を軸に今回の見直し作業は行なわれたと述べるが、厚生省に聞かれているのがそれだけではないのは明らかだ。

 

 安部氏の患者の存在について、厚生省は八三年六月のエイズ研究班で報告を受けていた。厚生省はこの時点で同患者のHIV感染を否定したが、八四年九月にはアメリカのギャロ博士が安部氏の患者四八名の血清の抗体検査を行ない、そのうち二三名が陽性、つまりHIVに感染していると判定した。ギャロ博士はエイズウイルスの権威として世界的に著名な学者である。鳥取大の栗村教授も同様の検査結果を出し、大変なことだと考え、八四年一月二八日、仕事納めの日に厚生省に伝えた。八五年一月三一日に厚生省主催の会議で再び梨村報告が行なわれたことなどは、すでに事実として確認されている。

 

 少なくともこれだけの事実によって安部氏の血友病患者のエイズ感染が確認されているのだ。にもかかわらず八五年三月、厚生省は日本のエイズ1号患者はアメリカ在住の日本人同性愛の男性だと公表した。そして今回で再び当時の判断は正しかったとの報告を出させた。

 

 「学問的判断の正否」などの美辞を掲げつつ、厚生省は薬害エイズ隠しで開き直った。

 

 これすなわち、新党問題で頭がいっぱいの菅大臣の足下を見すかした官僚たちの逆襲である。

ミドリ十字の懲りない体質

 「私どもは、決して虚偽の報告をしたとは思っていません。当時どういう判断でどういう数字をもっていたのか精査すると、虚偽の報告をしたという証明はできません」

 

 大阪ミドリ十字の本社で行なわれた記者会見で専務の西田正行氏はマイクを握りしめてこう述べた。

 

 だが、ミドリ十字が厚生省に、HIVに汚染されている危険性のある非加熱濃縮製剤の回収時期として報告していた時期は、実際より一年も早く、同時に危険な非加熱濃縮製剤の出荷最終時期もまた実際よりずっと早く報告されていた。危険な製剤の出荷を早めに止め、早めに終了したと報告していたのが、事実は正反対で一九八六年の年末まで出荷を続けたということだ。

 

 危険な非加熱濃縮製剤の代わりに安全な加熱濃縮製剤が承認されたのが、八五年七月で

あるから、その日から二年間も、ミドリト字はHIV感染を広げる危険を承知のうえで、非加熱濃縮製剤を売り続けていたことになる。

 

 会見を聞けば聞くほど、どこまでも営利を優先させ、結果として人命軽視の極地にいたって、なお恥じないミドリ十字の懲りない体質がみえてくる。いくつかミドリ十字側のコメントを紹介しよう。

 

 会見で、ミドリ十字の報告は虚偽ではないと主張した西田専務に質間がとんだ。

 

 虚偽ではないということは、どういう意味ですか。

 

 「基本的にいわゆる虚偽というのではなく、非常に不十分な報告であったといえるのではないでしょうか」

 

 -結果的にやはり偽りなのではないですか。

 

 「当時非加熱濃縮製剤にグリスマシンという名前のものがありました。これを加熱したものにHT(加熱)の二文字をつけていました。ですから加熱も非加熱も、名前が基本的に同じでまぎらわしかったのです。『グリスマシン』と『グリスマシンHT』ですから。おまけに価格も同じでした。そのうえ非常に数も件数も多かったのです」

 

 驚くべき態度である。仮にも製薬会社の人間が、名前が似ているので、両方の薬の見分けがつかず、それが誤った報告書作成につながっていきましたといっているのである。

 

 血液製剤が加熱されているか否かは、当時も今も、即、命にかかかる最車要事である。HTの二文字がついているか否かは、生か死かの間題である。まぎらわしかったので、間違って出荷しました。あるいは間違って記載して報告してしまいましたという性格のものではないはずである。

 

 こんなことを専務たる人物が記者会見で恥ずることなく公表するミドリ十字の体質とは一体なんかのだ。危険な製薬を八七年近くまで出荷し続けていたことについて「あまりにもいい加減ではないか」と追及されると、西田専務はこう述べた。

 

 「加熱濃縮製剤の発売当初から十分な量が確保されていれば、そうはならなかった。非加熱を

 

 一部流通させざるを得なかったという事情が根本にあります」

 

 「当時の状況については、担当者の記憶が実にうすれています。頭からうすれたり脱けおちたりして、解明できないのです。御理解いただくしかありません」

 

 ミドリ十字白身が解明できないことを、社外の人間に、または患者にどう「理解しろ」というのか、理解し難い。

 

 だがもう一つ理解し難いのは、彼らのいう「回収」の意味である。回収とは自ら行動をおこして出荷したものを再び引き取ることである。だがミドリ十字のいう回収の終了は「返品がなくなった時期」のことなのだそうだ。つまり、ミドリ十字は常識で考える回収作業などまったく行なわず、危険な製剤を「放置」していたということだ。この企業の徹底調査が必要だと確信するゆえんである。

 

 その後、新進党山本孝史議員の質間趣意書に対する厚生省の答弁書で一九八五年七月に承認された加熱濃縮製剤の検定結果では、その量は二三〇〇万単位に達していたことが、明らかになった。これは当時の必要量の二倍以上であり、日本には必要量を補うのに十分な加熱濃縮製剤があったことを示している。ミドリ十字は、十分な量の加熱濃縮製剤がなかったために止むなく非加熱濃縮製剤に頼ったという点を口実として用いていた。ミドリ十字の真っ赤な嘘である。ミドリ十字が非加熱濃縮製剤を出荷し続けたのは、やはり、在庫処理のためだった。改めて怒りを感じざるを得ない。