初めて法廷に立ったHIV患者の痛みの声

 九三年一〇月中旬、東京HIV訴訟の行なわれている東京地裁一〇三号法廷には、いつもとは違って大勢のマスコミ陣が詰めかけていた。一九八九年一〇月の提訴以来、まる四年を経て最終局面にさしかかったこの裁判に、初めて、HIVに感染した原告血友病患者が姿を現わすからだ。

 

 血友病治療薬として処方された輸入濃縮製剤によってHIVに感染させられた患者たちが、厚生省と製薬メーカーを被告として起こしたこの東京HIV訴訟は、原告全員が匿名というかつて例のない特異な形式の裁判だ。

 

 裁判はこの日も、おそらく史上初といってよい状況の中で進んでいた。

 

 午前一〇時の開廷に伴い、原告弁護団が四年間の法廷での戦いを総括した。

 

 三〇〇ページを超える原告代理人の準備書面が提出され、その要旨の朗読が終かったところで、傍聴人全員に退廷が命じられた。再び傍聴席に戻った人々が目にしかものは、巨大な衝立である。証人席に、コの字形にめぐらされた衝立は、その中に音もなく静かに座っている原告を、傍聴人からも、取材のマスコミからも、決して覗き見られることのないように守っていた。

 

 魚住庸夫裁判長が述べたI「このようなかたちを取ることは、おそらく日本の裁判史上初めてのことです。これは原告本人のプライバシーを守り、かつ原告が裁判を受ける権利を保障するためのギリギリの調整の結果です。それを傍聴の皆さんにご理解いただきたい」

 

 裁判長の言葉は、HIV感染者が感染の事実を周りに知られた途端に厳しく根強い偏見に直面せざるをえない日本の社会の現状を、裁判所がよく理解していることを示していた。

 

 衝立の陰から原告が語り始めた。

 

 「私は今二五歳、大学院の学生です。第五次原告を代表して私のおかれた状況を説明し併せて私の意見を述べさせていただきます」

 

 若いが落ち着いた声だ。彼は中学三年生のときにエイズのことをラジオのニュースで聞いた。以来常に心配していたが、その不安は東京医大の医者の「大丈夫だ。安心しなさい。任せなさい」との言葉で打ち消されてきた。彼は非加熱濃縮製剤は大丈夫かと質問したが、医師は「どんどん注射しろ」と述べたとその無責任ぶりについて語った。

 

 打ち消しえない不安に悩みながらも彼は医師の指示に従って非加熱濃縮製剤を使い続けた。そして一浪を経て大学入学を果たしたときに、告知をしてくれない東京医大に見切りをつけて東京大学附属医科学研究所を訪れたのだ。結果は無残にも陽性(感染)たった。

 

 「私は言葉を失いました。話か違うと胸の中で叫んでいました。・……私は東京医大の医者と看護婦によって感染させられたのです。医者は何度聞いても『大丈夫』と言ったのです。

 私を裏切った東京医大の医者たちへの怒り、恨み、悔しさは増していきました。しかし、実際には、私は激しい脱力感に襲われ、医者たちにこぶし一つ振り上げることもできないでいました」

 

 以来、彼は人間嫌いに陥り、およそだれとも囗をきかなくなる。だが、絶望に打ちのめされたこの青年が今、勇気をふるって法廷に立った。

 

 「血液製剤が危ないと知りながら、これをわざと見過ごした医者、役人、製薬会社の人たち、みんな私と一緒にエイズで死んでください。エイズという重い十字架を背負って、その下につぶれて死んでください。これが私の偽らざる気持ちです」

 

 青年の訴えが静寂の法廷に淡々と響く。

 

 「こんな運命があるのか。自分は二〇いくつで死ぬために生まれたんじゃない……」

 

 感情をコントロールした彼の訴えに被告代理人の表情もかげった。この青年の後ろには、二〇〇〇人が、同様の運命を背負って辛うじて生きている。その事実を思い、被告側は一目もいく判決が出るように協力してはしいと思った一日だった。